I wish...       ― Blue Bar ―

 僕がそこにふらりと立ち寄ってしまったのは、もう少しで終電のなくなる頃だった。路地裏にひっそりと、深い青のネオンサインが控えめに記した名前は「Blue Bar」。名前に惹かれた、という訳でもなく、無意識に足がここを目指していたのは確かだった。僕もそういう気分だったみたいだ。帰って寝るだけの身としては、少しぐらいの寄り道でもしたい気分に違いはなかったのだけれど。
 店内に一歩入ると、かなり趣向を凝らした店であるようだ。深海に漂うクラゲになった気分がした。自分すらも青く染まるような空間で、端から2番目のスツールに腰掛けた。すぐ歩み寄ってきたやや無愛想なバーテンに、柑橘類のカクテルを何か、と頼んで辺りを見回す。半分も埋まっていない座席、今の時間なら普通か。自分以外にもう一人カウンターの客がいることに気がつく。視線がそこに止まると、相手もこちらを向いた。
 彼女がこちらを向く。しかしすぐに視線をそらされてしまった。目の前のバーテンと少し言葉を交わす。彼女が立ち上がった。そしてこっちに歩いてくる。
「隣、いいかしら?」
 僕は「どうぞ」とコートを反対側へ避けた。隣へ腰掛けると僕をじっと眺め回し始めた。にっこりと笑うと、運ばれてきたグラスを傾ける。
「私を見てくれた人、初めてよ」
 彼女は言った。僕も自分のグラスを傾けた。彼女は返事を求めてはいない。僕は黙っていた。
「いつも木曜日の夜この時間にいるのに、誰も見てくれないの、私を。でも今日は違った。歌ってもいいかしら?」
 僕は躊躇わずに「ええ」と答えていた。そうするのが最適と思った。彼女は立ち上がると元いた席の横、一段高くなったステージになった場所へ上がる。そして、誰もいないはずなのにピアノの音が店内に流れ始めた。
 深く深く、心に染み込んでくるようなやさしい声。ここが青いのも彼女のせいかもしれない。まるで自分が胎内にいたときを想い出すような、懐かしさを感じる声だった。僕以外に店内に居合わせた人たちも、ステージ上を見ている。
 やがてその曲の途中で、彼女は不意に口をつぐんだ。悲しそうにこちらを見ると、彼女の体が消えてゆく。
「いつもこの曲の途中で、こうして消えてゆくんですよ」
 目の前のバーテンが呟いた。僕は立ち上がり彼女の横に歩いてゆく、途中で止まってしまった曲の続きを歌いながら。
 僕の声を聞いて、消えそうな彼女の顔がこちらを向く。やがて僕の声に彼女の声が重なる。そして静かにピアノの余韻を残して曲は終わった。店内のすべての人が拍手をしていた。彼女は店内に頭を下げた姿のまま、その空間に何の痕跡も残さず消えた。
「もうかれこれ5年になりますか、この店を開いた当時から彼女は歌っていました。決まって木曜日のこの時間、あの曲の途中まで。もう彼女は現れないのでしょうか?」
「ええ」
 淋しそうに「でも彼女にはよかったのでしょうね」と呟くと、バーテンは離れて行った。
 外に出て、もう一度店を振り返って見る。青いネオンサインはさっき見たときよりくすんでいるようだった。きっとあの鮮やかな青は、彼女が僕を呼んでいたから。僕に浄化されることを望んでいたから。
 そして僕にはそれができることも、通りかかった僕を見て分かったから。


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