― 硝子玉 ―

 少女は生成りの部屋から、ただ外を眺めていた。他に何もすることのない少女には、西向きの窓から外を眺めるのは唯一の楽しみだった。
 萌葱色を霞ませて、雨が降っている。今日ばかりはグレイに近い部屋で、少女はベッドの上に上半身を起こして座っていた。湿った空気が心にまで染み透り、少女は一つ溜め息をつく。
 ――もうすぐ、死ぬのかなぁ…。
 ゆるく結った髪を無意識に引っ張る。外出を禁止されてから一度も鋏を入れていない髪は、少女の腰の辺りまで伸びていた。一房を指に巻きつけながら、もう一回溜め息をつく。
 痛みのない毛先から手を離すと、視線を窓の外に移す。くすんだ灰色をした縦紋様の羅列の向こうには、小さな空き地が広がっている。何一つ変化のない春の雨の一日。
 ――!
 少女は目を僅かに見開いた。ただの青灰色の中に浮かび上がる、異種の鮮やかさ。右に左に、上に下に揺れる、目にもまぶしい白と緋。少しずつ、少しずつ近づいてくる。
 ――人…間?
 白い水干に紅の袴、草色の舞扇を手に舞う白拍子の姿だった。もう窓からはっきりと見て取れる位置で、少女の好奇の目の中で白拍子は舞っている。現実のものか自分の夢の中なのか、理解し難い。このところは身体を動かすのもつらく、今みたいに起こしてもらった姿勢のまま夢うつつになることも多かった。瞬きする少女の目には、時代を超えた白拍子が、現実を無視して宙を舞っている様子が映っていた。
 その白拍子が、一瞬だけ黒く濡れた瞳を少女に向ける。笑みすら浮かべたその白い顔に、見てはいけないものを見たような気がして少女は身震いした。しかし、その矛盾の中にある美しさに惹かれて、少女は言うことを聞かない身体を乗り出すように、食い入るように窓の外を見ていた。すると次第に白拍子は近づいてくる。
 視界いっぱいに広がっているかのように見える水干の袖の流れに気を取られ、白拍子が宙に浮いていることに少女は気付いてはいない。もう窓のすぐ側、手を伸ばせば届きそうな位置まで来ている。
『来ぬか?』
 艶やかという表現に似合う、少し低い、男とも女ともつかぬ声が聞こえた。少女は白拍子が発した声とは気付かず、夢の虜となった者の瞳で白拍子を追っていた。
『妾と、来ぬか?』
 今度こそ、白拍子の口唇の動きを見、それが白拍子の語りかけだと気付いた少女は、自分が誘われているということに気付いた。意のままにならない自分の身体。しかし今は、あのように踊ってみたいという衝動を押さえることはできなかった。少女は無意識のうちに頷く。
 白拍子の白い繊手が窓枠という物理的障害を越えて少女に差し出される。少女の右手がぴくりと動いた。本当なら半日分の体力を消耗するほどの大変な動き、しかし白拍子に伸ばす腕はふんわりと軽く、目的の高さまで軽々と持ち上げることができた。掌が重ねられる。その手の異様な冷たさに、少女は気付かない。身体中が軽く感じられ、少女は白拍子に引かれるままに、人の形に沈んだベッドを抜け出した。後を追っていたシーツが、名残惜しそうに少女につながっていたが、支えを失ってはらりと床に広がった。
 雨はまだ降り続いている――白拍子と少女の周りを除いて。二人は萌葱色の野原に立っていた。見慣れた家並みも、遠くに見える山々も雨に溶けて、滲んで消えた。二人は霞んだ野原を舞台に踊っていた。
 やがて二人の舞い手も色を失い、雨の青灰色に溶けてゆく。最後の一点まで、春の雨が流して、地面に染み込んでゆく。縦紋様の羅列だけが窓ガラスに取り残されていた。
 生成りの部屋で少女は一人、窓の外を眺めている。始めからずっと、同じ姿勢のままで。
 もう、その瞳は、茶色の硝子玉になってしまったというのに。

Back

Back to top page