― 秋 ―

 夏の名残の暑さも退き、しまい忘れた風鈴の淋しげな澄んだ音色が、蜂蜜色の三日月の夜空に響いて寒さを際立たせている。男は書類鞄を左の小脇に抱えて、薄暗い街灯の下をおぼつかぬ足取りで歩いていた。その頬はこけ、目は落ち窪み、疲労の色を濃くした顔は酒気を強く帯びていた。
 男は千鳥足を突然止めると、天に向かってなにやら呟いている。
「…俺はもう終いだ。事業は失敗、借金は山のように膨れ上がり、妻や子供に逃げられ…」
 がく、と首を力なく下げると、再びゆらゆらと歩き出した。辺りに薄霧がたち始め、家並みが霞んできているが、男は気付かない。歩きながらなお、呟きは止めない。
「あの頃はよかったよなぁ…。青年実業家、なんて呼ばれて、経営も順調でさぁ。それが今じゃ文無しの落ちぶれた中年男に成り下がっちまった。帰る家すらないときたもんだ」
 歩いたせいで酔いがまわったのか、独り言の呂律が回らなくなっている。いよいよ歩くのも怪しい。
「何故なんだ、何が悪かったんだーっ!!」
 一声叫ぶと、その勢いで道路に尻餅をつくようにへたり込んでしまった。しかしアスファルトについたはずの手に、あの硬くてひんやりとした質感は感じられず、目の前に持ち上げた掌には、土と、湿り気を帯びた赤茶色の葉がついていた。男の思考が、掌にその葉を認めた頃、男の頭上から幾枚かの枯葉と共に、ひっそりとした含み笑いが舞い降りてきた。
 歪み、回り始めた視点を上に定めるために頭を持ち上げると、そこには左右に大きく枝を張り巡らせた太い桜の大樹が、落葉の期を迎え色づいていた。まだ紅葉の時期には早いのだが、男の思考はそんなことには気付かない。熟した美しさが頭上へ美の破片を降らせているのを茫洋とした面持ちで眺めているだけである。それ以外は闇の中。家並み、街灯すらそこには存在しないのに、大樹の桜だけは男の目に、歪みもせず浮かび上がって見えていた。
 おとな二人の腕にも余るほどの幹の影から、白い衣を見につけた女がひっそりと姿を現した。熟女の域に達しているようだが、その顔には少女のあどけなさを残し、長い睫はやや潤んでいるような黒瞳を縁取っていた。そして一際目立つ美貌。
 さして歩いたとも思えないのに、女は男の眼前に膝を折ると、座り込んだ男の手を取った。男が立ち上がると女は手を引くように張り出した根まで導き、先に腰掛けた。
「死を、願いましたね?」
 女の問いに男が頷くと、女の白い手が伸び、男の頭を引き寄せて自分の膝に乗せた。男はなすがままに横たわる。その顔は不思議と安らかに見えた。その頭を撫でながら、女は呟く。
「疲れていたのですね…こんな所に迷い込む程。お眠りなさい、望みを叶えてあげましょう」
 その声に導かれるように、男は眠りの淵へと落ちてゆく。

 朝、近所の住人が出勤時間を迎える頃、慌ただしく動き回る警察官の群れが、道路にロープを張っていた。その物々しい制服の隙間から垣間見ると、ゴミの入ったポリ袋に、サラリーマンらしき男がうつ伏せているのが見えた。下世話な主婦の会話から察すると、酔っ払ってそこに座り込み、そのまま死んだらしい。
――冗談じゃねぇ、このゴミ、どうすんだよ。
 皆そう思い、やや遠回りの道から、手にしたゴミ袋を違う収集所に投げ入れると、駅へと向かっていった。
 混み合った、屋根ばかり連なった住宅街には、どこにも大樹の桜の生える余地などなかった。

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