― 夏 ―

 壁越しの、言い争う声。
 最初は聞こえないぐらいのヒソヒソ話だったのが、今は何を言っているのか隣の家まで聞こえるぐらい大きな声で怒鳴りあっている。
「お前がきちんと見ていないから――」
「一度だって協力してくれたことないくせに――」
 声が聞こえるたびに、窓際の壁で耳を押さえてうずくまる小さな影はビクッと震える。冷たい床の感触などとうに忘れて、そこに小さな水溜りを作るほど、その顔は涙でくしゃくしゃになっている。
――ボクが悪い子だからいけないんだ。
 ついに母親の泣き出す声を耳にして、思わず立ち上がると玄関から飛び出した。
――ボクがいなくなれば、ママが怒られなくてすむんだ。
 母親に買ってもらったばかりの大事な靴を履いて、あてもなく走り続ける。早朝、人通りもほとんどなく、誰も泣いている小さな子供に注意を向けない。
 思わず飛び出した通りで、大型車が慌ててブレーキを踏んだ。びっくりして転んだ1メートル手前で、止まった車の窓から青ざめた運転手が怒鳴っている。その声で、また父親の怒鳴り声を聞いたような錯覚を起こし、泣き叫びながら走り出した。膝から滲んでいる血にも、いつもなら動けなくなってしまう痛みにも、気付くことなく走りつづけた。
 気がつくとどこかで見た景色の中にいた。いつも散歩で訪れる河川敷、たぶんそこに似た場所。座り込んで膝を抱えた。
 やっと傷に気付いたが、不思議と涙は出なかった。傷のためには出なかった。痛みは少しあるけれど、そんなの大した事じゃなかった。
 Tシャツの裾を引っ張って、顔を拭いた。それでも涙が出てくるのが止められない。膝の間に顔をはさむように下を向いた。緑の草の上に涙が落ちるのを、ぼやける視界でじっと見ていた。首の後ろが暑い、日が高くなってきたみたいだ。
「ひとりかな? どうしたの?」
 女の人の声がする。まだ止まらない涙ごと、そうっと顔をあげて声のほうを見てみた。そこには母親と同じくらいの年と思われる、髪の長い女の人が立っていた。太陽を背に立っているので顔は陰になって見えない。長い髪が光に透けて、金色に近く光って見えた。熱を帯びた風が、二人の間を繋いで通り抜ける。
「ここにいると、暑くてお熱が出ちゃうわ。木の陰に行きましょう」
 細くて長い指が示す方には、一本の大きな木。さっきまで必死で走ってきたので、そこにあったことに気付かなかった。横に張り出した枝が陽炎揺らめく土手の中で、そこだけ切り取ったように澄んだ空気を湛えているのが、小さな目にも分かるほどそこには異質な存在だった。それでいて負のイメージは感じられず、むしろ好ましい雰囲気を感じ取って、浮かんだ涙を瞬きして飲み込むと、女の人の差し出す手につかまって立ち上がった。
「えらいね、もう、泣いてない」
 角度が変わったはずなのに、女の人の顔は相変わらず陰になって見えない。それでも不思議と素直に手を引かれて木の下まで歩いていった。
 ちょうど腰掛けるのに具合よく張り出した根に、二人で並んで座る。長いスカートのポケットから薄いピンク色のハンカチを取り出すと、まだ頬に残っている涙を拭いてくれる女の人をじっと見詰めた。向こうもじっと見つめてきていた。どうしていいか分からなくなり、自分の傷ついた膝に視線をおろす。無言の時間がしばらく続いた。
「ボクね…」
 さらに日が高くなり、相当気温が上がっているはずなのに、ここだけは涼しさを保っている不思議に気付かず、やっと落ち着いた心の内を少し話してもいいような気持ちになって、口を開いた。うまく声が出ず困って顔を上げると、やさしげな目でじっと言葉を待っている様子の顔がそこにあった。気を取り直すともう一度口を開いた。今度はすんなり声が出た。
「ボクね、家を飛び出しちゃった。おとうさんとおかあさんがけんかしてて、おかあさんが泣いちゃって…。ボクが悪い子だから、ボクがいなくなれば、おかあさん、おこられなくなると思って、それで…」
「悪いこと、しちゃったの?」
「うん…」
 思わずうつむいてしまった横顔に、真夏の暑さの中を通り抜ける一陣の風のように、静かな言葉が掛けられる。
「してしまったことは、仕方ないわ。もうしなければいいの。でもね、あなたがいなくなってしまった事で、きっとお母さんは怒られるよりもつらい気持ちになっているはずよ」
「うん…そうだね」
 小さな肩に手が掛けられる。そうっと引き寄せて、まだ寝巻きのTシャツごと包み込むように抱きしめられ、張り詰めていた緊張の糸が切れてしまったようだ。まぶたが急に重くなってきた。蝉の鳴き声も、意識からは遠くなってゆく。
「疲れたね、よくがんばったね。少し眠りなさい。もうすぐお母さんが来るから、それまでそばにいてあげるから」
 ゆっくり閉じるまぶたの間からやっと見えた女の人の顔は、青々と茂る頭上の桜の葉のような印象だけを意識に残して消えた。その口唇がかすかに動く。それが「ありがとう」という言葉の形になっているのを見て、女の人はうっすらと笑みを浮かべると顔を上げた。そこに子供の名前を必死に呼びながら走る母親らしき人物の姿を川上の方角に見つけた。
「いい子…」
 頭を撫でながら母親の走る姿を見ていた。

 泣きじゃくりながら抱き上げる母親に、少し驚いたように子供は目を覚ました。まだ眠い目を擦りながら、それでも言わなきゃいけない言葉を思い出して必死に口を開く。眠気で呂律の回らない言葉を、それでも母親は理解したようだ。抱きしめ、頭を撫でて無事を喜び、そして詫びた。
 もはや日向では寝ていられないほどの気温になっていたが、大きく張り出した桜の枝が二人を見守るようにたくさんの葉を茂らせて木陰を作っている。新しい靴のためにつぶれたマメから出た血に気付いた母親は、また眠りにつこうとする子供の足から靴をはずした。そしてそっと子供を背におぶって家路についた。
「よかったね、もうこんな所に迷い込んじゃだめよ」
 二人の背中にこの声が届いたかどうか。少し先の角を曲がる頃、もうずいぶん長いことそこにあったような風格の桜は暑い風の中に消えた。はじめから何もなかったことを示すように、桜のあったところは人の通る道が貫いて日差しを受けていた。

Back

Back to top page