― 春 ―

 夕方から降り出した雨は、夜半を過ぎた今も降り続いている。所々にある街灯の淡いオレンジの光だけが、黒く濡れた道路をぼんやり照らしているが、今日は月明かりもなくほとんど闇に近い。
――進行方向が分かるだけマシか。
 湿って重くなった傘を持ち直して、暗い夜道を歩いてゆく。大学時代の友人と数ヶ月ぶりに会って飲んだのはいいが、少し遅くなりすぎたようだ。終電にギリギリ間に合ったぐらいだ。駅を出た頃には酔いも覚めかけている。
 一台の車が横を通り過ぎる。水溜りがあったのか、派手にしぶきを上げていった。その水が足にかかる。
「っ!!」
 走り去る車の後をにらみつける。スーツの膝から下は、泥混じりのシミが大きく自己主張しているようだった。その視線の先、闇の中に白いものが忽然と浮かび上がる。正面よりやや右、あと50メートルも歩けばそこへ行けるだろう。足は自然にそちらを向いていた。何か惹きつけるものを感じていた。
 ネクタイを少し緩める。なんだか気温が上がっているような気がする。白い霞は徐々に近づいて、その大きさが分かるほどになった。
――桜・・・大樹の桜だ。
 少しずつ、その淡い紅色を明らかにして、そこに桜は存在していた。満開の少し手前、花はほとんど開き、ときどき淡い色が揺れながら地面を目指す。春の細い雨が心なしか弱まって、止む気配を感じさせた。
 ぼう、とかすむ薄紅を眼前にしても、この桜の不思議に気付かない。ほかの桜はまだ開いている訳でもないというのに、この桜は忘れ去られたように、この場所に浮かんでいるようだった。
 春闇で見えない幹の辺りに、もうひとつ小さな白い影が浮かび上がる。少しずつ輪郭をはっきりさせて、人の形を現してゆく。幽霊のようだが足もあるし、桜色の肌をしているのが見てとれる。見ている前で白い影は、長い黒髪に白いワンピースを着た少女に変化した。表情のはっきり見えない、うつむいた顔をゆっくり上げる。少女はこちらを見つめ返した。記憶にない程の美少女だった。
――こんな時間にこんな場所で、何をしているんだ一体?
 少女が淋しげな微笑を浮かべた。すっかり酔いの覚めた頭で立ち尽くし、いろいろ考えながら、動かず少女を見つめていた。
――そういえば、ここいら辺にこんな大きな桜、あったっけ? これだけ大きい桜なら気づくはずだよなぁ・・・。
   思いながら、無意識のうちに少女のほうに歩き出した。一歩進むたびに花びらがふわっ、っと舞いあがる。その一枚が思いがけず高く上がり、左肩に留まった。こっちをじっと見ていた少女が、僅かに首を横に振る。この間一言も発さず、ただそのはっきり示された意思表示に、思わず歩みを止めた。
 立ち止まるのを待って、少女の右手が上がる。一瞬腕の軌跡に残光が見えたような気がした。その指先が左のほうをまっすぐ指し示す。見ると、はるか遠くに車のテールランプの赤が流れているのが見えた。いつの間に道路はあんな遠くに行ったのだろうか、と思うほどこの場所とかけ離れた景色に見えた。
 視線を戻すと、そこには桜の大木があるだけだった。ゆっくりと舞い降りる花びらも、何事のなかったかのように少女の立っていた空間を漂って地面を目指す。
 あっちへいけ、という意味ととらえて、桜に背を向けて少女の指していた方へ歩き出す。
 街灯の下まで来て振り向くと、大樹の桜はそこにはなく、見慣れた家並みがぼんやり浮かんでいるだけだった。ため息をひとつついてから傘を閉じて、雨の止んだ夜の道を、家に向かって歩き出した。

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