細い月が出ていた。まだ夕方と言っていい時間だったと思う。
突然切り出された話に驚いて、内容が飲み込めないまま頷いたことだけを思えている。それからどのくらいたったのだろうか。
昨日も細い月が中天に引っかかっていた。出先での仕事が早めに終わり、いつもと違う道を歩いて帰宅しようとしていた。後ろから規則正しく聞こえる靴音にどこか懐かしさを感じながら、風の冷たさにコートの襟を指先で引っ張っていた。
「○○君、だよね?」
不意に背後からかけられる声に、どこか聞き覚えがある気がして振り返ると、冷えた空気と後ろめたさを表した眼差しと、細い月の記憶がよみがえった。
「懐かしいね、あれからどのくらい経ったのかな」
はにかむ様に笑う笑顔の記憶は、なぜだかあまりない。「ああ」と短く返した僕に、相変わらずだと言っては、また笑った。
そんなことを言われても、こちらには話すことなど思いつかない。彼女は一方的に近況を話し始めた。
「じゃあね、また会うかは分かんないけど」
そういって去った彼女の背中が、街灯のせいかオレンジ色に見えた。
今日は空が曇っている。もう一度あの細い月が見たくて昨日と同じ場所に立っている。時間はほぼ同じ。
でも黒い空でも灰色に見える雲に阻まれて、あの細い月は見えなかった。
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